Pyon-Pyon United

この世には、遊びに来たので。

知らない=知りたくない?

我々は「知りたいこと」しか「知って」ないのではないか?

ファクトとか陰謀説とかに通づるようなそうでもないようなだけど、「知りたくない」もしくは「知る価値のない(と思っている)」ことって知り得ないので、自分が他意なく知っている(と思っていること)って実は自分が「知りたい」と思ったことしか「知って」いない気がする。

これデカルトか?


今って情報が溢れているし望めばいくらでも手に入れられるけれど、それだけに(無意識下だとしても)取捨選択していると思う。ネットは顕著な例で、欲しい情報(=知りたいこと)はフォローして積極的に手に入れ、望まない情報や不要な情報(そしてそれに触れることによって抱く嫌悪を)ブロックでシャットダウンし、存在しないものに出来る。

一見スマートで合理的なスタイルだし、実際精神衛生という側面では良い対応なのかもしれない。本来感じる必要のない不快さをあらかじめ除去して快適な生活を送るために自分を適切にマネジメントしているといえば聞こえは良い。ネット上ではそれでも良いかもしれない。しかし実際にはその情報は存在している。その人にとっての快だけの情報で満たされている場所なのだとするとそれはさながらユートピアであろうが、その周りに除けられた反対の情報が溢れているとすれば社会構造的にはディストピアでしかない。

当たり前のことだけれど、自分に心地良い情報が真実であるとは限らない。


一方テレビやラジオ、雑誌は良い意味で情報を垂れ流している。その利点は聞き手に情報が選べないところではないだろうか。ファッション誌にファッションだけでなくレシピが載っていたり、映画や音楽の新作情報が載っていたりすることで、編集部が想定する読者層の趣味嗜好に合わせた(いわば"検閲された")内容とはいえ、我々は思いもよらぬ情報を手に入れることがある。トマトの意外な調理方法を知ったり、手のひらの生命線の角度をいかに見るか知見を得たり、胡散臭い広告記事でその商品に不信感をもったり、モノクロ印刷の不鮮明な俳優の笑顔に一目惚れすることだってあるだろう。

それらは「自ら選ばなかった情報」ではないだろうか。雑誌という情報媒体こそは「選んだ」が、その内容に対して(読む、読まないの選択はあるにしろ)読者はあくまで受動的である。

あるいはテレビ・ラジオのチャンネルを選択する、見る番組を選択する、それがネットのフォローに当たると受け取ることも出来るが……。フォローというよりももっと気軽な選択……リンクをクリックすることがそうかも?


「知らないこと」を「知る」のは「知りたいこと」を「知る」ことと「知りえない(であろう)こと」を「知る」のいずれか(知らないことを知らない場合はまた別の問題)で後者はテレビなどの旧媒体としては当たり前の情報の受け取り方だった。もちろん扱う情報に偏りが出る場合もある。それでも我々は全く未知の(そして未知であるはずだった)情報に触れられた。全ての情報があると言っても過言では無いほどの今のネット環境下では、知りたいことベースで選ばなければあまりに膨大すぎる。有り過ぎるのはもはや無いことと同じである気がする。ネットでは自分に今ある知識の幅を広げるのは容易いが、興味すらない世界の常識を得ることは難しい。


……ウィキペディアのおまかせ表示、いいよね〜。